2012年4月10日火曜日

がれきの広域処理を考える③

少々の危険は仕方ない。現地は困っているのだから受け入れるべきだ・・・という人情論。

なんとなくこの気持ち共感できます。
困っている人は助けたいし。放射性物質だって、豊かな電化生活と引き替えに利用していたのは他でもない「私たちみんな」なのだから。いくら「東京電力」が作ったとはいえ「東京電力」のお客様は一般市民であるし、私が電気を買っている「関西電力」もたくさんの放射性物質を生み出しながら電気を作って、それを私たちは買って生活していた。もちろん原発反対の声を上げた人もいたわけだけれど、なし崩し的かもしれないがそれを受けいれて電気を使って暮らしていたわけです。少々の危険は覚悟して、がれきをシェアしよう!!!

でも、です。

確かに私たち大人は、少々の危険を受け入れるのは不可避かもしれません。NOと言う資格すら持たないかもしれない。けれども子どもたちは?これから生まれてくる子どもたちは?
子どもたちも「少々の危険」を受け入れなければならないのでしょうか?
子どもたちの笑顔のために、しあわせに暮らせるために大人は日々努力して、働き、活動しているはずなのに、今回だけはそのことを主張するのはダメなのでしょうか?
これから生まれてくる子どもたちに、放射性物質のリスクを「広く負わせる」ことが、ヒューマニズムなんでしょうか?
ましてや子どもたちは放射性物質の感受性が大人よりもかなり高いことがわかっているのに・・・・。結局、大人たちのツケを払うのは子どもたちなのに・・・。

何兆円もの予算を使い、あれだけの多重防護を施した施設も、「想定外」の自然のきまぐれにもろくも破綻したのを私たちは経験してしまいました。
今回の広域がれき処理で、放射性物質が絶対に外に漏れない、拡散しない、人的な被害にならないと言えるのでしょうか?今回は自然よりも気まぐれな人間がしようとすることです。「万が一」が起こったときに子どもたちに何と言えばいいのでしょうか?

納得できる言葉を教えてもらえたら、がれきを受け入れても良いかな・・・・

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